政治や経済、世界情勢などさまざまなニュースを知る手段として欠かせない新聞。この新聞という言葉が作られ、広く国民に知られたのは明治時代だった。
江戸時代にも、火事・地震などの災害のニュースや心中・敵討ちなどのゴシップを中心に、人々が興味を持つ情報を1~2枚ほどの紙に印刷した瓦版があった。しかし、当時の徳川幕府は出版物について厳重に規制していたため、政治的な内容などには触れることができず、ジャーナリズムとは程遠い内容だった。
明治時代になると、国内外の政治や経済に関するニュースを報道する新聞が各地で登場した。1868年(明治元年)2月に東京で発行された「中外新聞」は、外国事情の紹介とともに、国内のニュース報道にも力を入れ、1,500部の販売部数を誇った。また、同年に旧幕臣・福地桜痴(ふくちおうち)が発行した「江湖(こうこ)新聞」は、総ふりがな入り、イラスト入りで、漢字の読めない人々も読むことができるよう配慮されていた。
こうして、各地で新聞を創刊する動きが広がったが、当時の新聞の発行者たちは、旧幕臣など徳川幕府を支持する者が多かったため、内容的にも新政府を批判するものが多かった。なかでも「江湖新聞」はその傾向が強く、新政府の批判を続けたため、発行者の福地は国事犯として逮捕・投獄されてしまった。以降、政府の許可のない新聞の発行は一切禁止され、1869年(明治2年)に政府の許可を得た新聞の発行を認める「新聞紙印行条例」が発布された。
1871年(明治4年)、現在と同じような新聞紙に活字印刷をした日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が登場した。明治元年に登場した新聞は、木版で印刷したものだったが、印刷技術の向上により、毎日最新のニュースを届けることが可能になったのである。この横浜毎日新聞は、東京、大阪、兵庫、長崎に販売店を置き、全国に展開した初めての新聞でもあった。
そして翌年には、現在の毎日新聞である「東京日日新聞」や「郵便報知新聞」などが創刊された。とはいえ、その内容は政治経済のトピックのみを扱うもので、文章も漢文調で書かれた難しいものだったため、読者は知識階級が多く、庶民が気軽に読めるようなものではなかった。
そこで、誰にでも読めるひらがな書きで、イラストを用いた庶民向けの小新聞(こしんぶん)と呼ばれる新聞が作られるようになった。大新聞(おおしんぶん)が政治経済上の事件のみを取り扱ったのに対し、小新聞では政治は簡潔にふれるだけ、民間の出来事や演芸会のネタを中心に取り扱うとともに、「つづきもの」(連載小説)を掲載した。この小新聞の代表的なものが1874年(明治7年)に創刊された「読売新聞」だ。
こうして多くの国民にニュースを伝えるという役割を確かなものにした新聞。
1879年(明治12年)に創刊された朝日新聞の前身「大阪朝日新聞」が創刊2年で発行部数1万部を越えるなど、多くの新聞が飛躍的に発行部数を伸ばしていった。明治20年代に入ると、教育制度が確立され、庶民の識字率が向上したことが、社会に関心を持つ読者を育てることになり、新聞はさらに一般に広がっていった。
1904年(明治37年)に164万部だった新聞の国内発行部数は、この年に勃発した日露戦争を契機に大きく伸び、1907年(明治40年)には228万部になった。このころの新聞代金は1か月で30~40銭。同じころの小学校教諭の初任給が8円、銀行員は35円、新聞記者は12~25円だったというから、庶民が買い求めやすかったことも、新聞が普及した要因といえるだろう。
明治の始まりとともに誕生した新聞というジャーナリズムは、世の中の動きを知りたいという国民の声に応えてきた。政治や経済をはじめ、さまざまな事件、戦争や災害などのニュースを正確に伝えてきた結果、現在では一般紙の発行部数は4,500万部を越える一大産業となり、情報を大衆に大量伝達する巨大なマスメディアへと成長したのである。
日々刻々と変化する国内外の最新のニュースを、タイムリーかつ大量に伝達する新聞。その存在が今日の日本の経済発展に果たした役割は大きいといえるだろう。



